相楽台万葉サロン本講座概略

第36回本講座 天武天皇と「伊勢神宮」ーホールでめぐる萬葉故地2ー 2024年(令和6年)8月17日

2024,8,17 万葉講座概略

天武天皇と「伊勢神宮」―ホールでめぐる萬葉故地2―

 

 前回の講座で、67110月皇位継承を辞退し出家して吉野に入った大海人皇子が、翌年5月の大友皇子の兵力動員や食糧運搬の遮断を受けて、東国(美濃)で挙兵するために吉野を脱出するところまでお話しいただいた。

 今回は、672624日吉野を出発して24日は約14時間、25日は約8時間半、昼夜を問わず、津振川(現在の津風呂川、津風呂湖)→菟田(同 宇陀)→隠(同 名張)→伊賀→積殖(同 柘植)→鈴鹿→川曲→三重郡家(同 四日市市)→朝明郡家(同 四日市市久留倍遺跡)と進んで、626日に桑名に至るまでのお話だった。

 印象に残ったのは、次の5点である。

①出発時の一行はたったの32人余りであったこと。美濃に兵の招集・不破の関の閉鎖を指令してあるとはいえ、近江軍との対決を前に女子供を含めて30人ほどでの出発だったとは。

②津振川への矢治峠越えの道はとんでもない急峻な崖っぷちであったこと。(YouTubeの動画「壬申の乱」歴史の道 矢治峠を越えてみた[https://youtu.be/Kc81opDkAk8]をご覧ください。)

③壬申の乱と直接関係はないが、昭和21年にダム湖津風呂湖に沈んだ津風呂部落20戸が、平城山大通りの奈良大学の南に集団移住して津風呂町となっていること

④隠(同 名張)の横河で大海人皇子自ら雲の様子を占って「私が天下を取ることになる」と言ったこと。

実は、私は先生が横河は畿内の東限だと説明されてもピンときませんでした。後からそうかと気が付いたのは、

「横河を越えることは彼らにとっては畿内を出て異境の地に踏み込むことで、それだけでも不安なところに参軍の呼びかけに応じる者もなく空には異様な黒雲まで起こっている、皆の不安をしずめ士気を高めるためにはこういういわばパフォーマンスが必要だったのだ」ということでした。

626日大海人皇子が「天照太神」を望拝しているが、それは伊勢神宮のことか、太陽のことか。

伊勢神宮の創祀は諸説あってこの時期すでに神宮があったかは不明である。ただし、翌673年に大來皇女(天武の子、大津皇子の姉)が伊勢斎宮となり、674年に伊勢に向かっている。斎宮遺跡の発掘では天武天皇以前のものは出ていないので、これが斎宮派遣の最初だと思われる。とすれば、神宮は天武帝の時代になってから創祀されたと考えた方がよいか。伊勢神宮の発掘調査を待たねばならない。

 今回は木津中1年の古川茉侑さん、同3年の徳田慈さんがボランティアに来てくださって、PCを使いこなしてスライドの映写をお手伝いいただきました。頼もしいボランティアさんでした。 

(諸)

 

 

第35回本講座 家持秀吟および絶唱より(補)と 天武・持統の吉野の宮(ホールでめぐる萬葉故地1) 2024年(令和6年)6月15日

2024,6,15 万葉講座概略

家持秀吟および絶唱より と 天武・持統の吉野の宮(ホールでめぐる萬葉故地1)

 

今回の講座は三部構成でした。

第1部は前回講座の続きで、「越中秀吟」天平勝宝二年(750)三月一日から三日までのほとんど徹夜で詠んだ十二首は、三日の宴のためにあらかじめ詠んでおいたものではないか。続いて天平勝宝五年(753)の「絶唱」三首は、「揚げ雲雀の声も聞こえるうららかな春なのに自分は悲しみに心が締め付けられる」など、胸をしめつける春の愁いを歌に詠むことで払おうとしたもので、天平勝宝三年に少納言となって帰京したのちは越中時代のような心を許して付き合える友がいなくなった孤独が背景にある。

第2部は「ひらがな字体一覧表」を見ながら。平安時代に発達するひらがなが、まだ草書体にくずされないかたちで、家持らによってすでに使用されていたことを、つぶさに知ることができた。

第3部は地図と写真を見ながら、壬申の乱の発端(672)から、乱が終結し大海人皇子が即位して天武天皇となって6年後(679)、吉野宮に行幸して皇子たちを抱き「吉野の盟約」をなすまでの要点をお話しいただいた。その盟約の折の天武天皇の歌(萬葉集巻一、27)が、それ以後、柿本人麻呂・笠 金村・大伴旅人らの吉野讃歌の源泉となったことに感慨をおぼえる。皇后(後の持統)も盟約をともにするが、天武死後、持統が草壁即位の邪魔になる皇子を次々に排除していった歴史を知っている我々は憮然たる思いになる。持統はその後33回も吉野に行幸したそうだ。                   

(諸)

 

現地講座 井手の玉川山吹を訪ねて  2024年(令和6年)4月21日

[現地講座]  2024,4,21

井手の玉川山吹を訪ねて

 

日本の古典文学と言えば和歌。『源氏物語』と言えども和歌なしでは考えられません。

山城地方の古典文学と地域の関係を研究しておられる小西亘先生の著書から「井手」は、平安の昔から歌枕として名高く、歌人、文人の憧れの地であったことを知りました。そこで今回は「井手の玉川」を訪ねて見ることにしました。

9:30分、一行19人、高の原イオン前よりバスに乗り、30分ほどで井手町役場新庁舎に着きました。令和5年に竣工したという新庁舎は、自然採光、自然換気を取り入れたという超近代建築で、その隣には、道の駅や図書館も含んだ「山吹ふれあいセンター」があり、周りには一面広々とした田園風景が広がっています。

何故井手町役場かというと、実は講師の小西亘先生の紹介で「山背古道探検隊」と繋がりができ、この催しも「山背古道探検隊」と「共催」で行うことになり、小西先生の講義も井手町役場新庁舎の会議室で行うようになったというわけです。

10:00分、まず「山背古道探検隊」の 紹介から始まりました。山背古道とは京都府南部の城陽市、井手町、木津川市にまたがる25kmの散策道で、「探検」をしながら歩き、地域の埋もれた魅力を発見していこうというものです。

10:30分、小西亘先生の講義開始。橘諸兄、藤原俊成、藤原定家、紀貫之、後鳥羽院、和泉式部、紫式部、源実朝、、、井手にまつわる和歌の数々。「井手の玉川」「山吹」「かはづ」は歌詠みの基本のきであったのでしょうか。

12:00分、昼食は「山吹ふれあいセンター」内のカフェ「テオテラスいで」で特製弁当とコーヒー。

13:00分、春雨に濡れながら散策開始です。井手と言えば奈良時代権勢を誇った「井手左大臣 橘諸兄侯」、その氏寺 「井手寺跡」が役場の近くにありました。今は幹線道路脇の狭い敷地を石の欄干で仕切り、東屋と石碑が広大な寺院跡を偲ぶのみでした。

次は、念願の玉川畔の散策。私は以前、井手の玉川を初めて見た時の感動を忘れることができません。なんという美しい川!  何がどうしてこんなに美しいのだろうか! 理屈抜きでこの自然に魅せられました。清涼な水のながれ、ところどころに堰をつくり、水の滾る音がどこまでも聞こえてくるのです。この小川が千年前とどう変わってきたのか分かりませんが、まさに玉川だと思いました。

この天然の美しさを持つ小川のせせらぎに、両岸に山吹が咲き誇ったらどんなだったろうと想像すると心が沸き立つようでした。

令和の玉川は、桜並木が彩りを添えてくれています。しかし現地講座の今日は桜も終わり、八重の山吹が満開に咲き誇っていました。俊成が馬に水を呑ませたのはどの辺りかな?  小町が聞いたかはづの 鳴き声はどんなかな?  などと小西先生の講義を思い出し自問自答してみました。

続いて少し坂道を登ると、狭い小道の際に、なんとも奇妙な大石を四つ積み重ねたものがあり、その傍の 小さな石碑に小野小町塚と掘ってありました。小町の墓は全国各地にあるそうですが、井手の「小町塚」は信憑性が高いそうです。

最後に地蔵院まで登り、小雨にけむる井手の街並みを一望しました。

今回は、井手の歴史や文学に詳しい小川榮太郎氏がガイドをしてくださり、一つ一つ詳しく説明をしてくださいました。これからも、足元に眠っている歴史や文学を掘り起こして、地域に親しんで行きたいと思います。

 (中谷記)

 

 

第34回本講座 家持秀吟および絶唱より  2024年(令和6年)4月20日

相楽台万葉サロン講座概略 

2024年4月20日 

家持秀吟および絶唱より

 

    ① 家持秀吟および絶唱

天平勝宝二年(750年、家持三十三歳)三月一日から三日にかけての連作十五首の中から四首について解説。

  〇春の苑くれなゐにほふ/桃の花下照る道に出で立つをとめ(萬葉集巻十九、4139

8世紀唐王朝で盛んだった“樹下美人図” を思わせる歌である。「にほふ」は視覚による言葉で、「美しく照り映える」意。「くれなゐにほふ桃の花」と、三句切れに解する説があるが、二句切れと考えるのがよい。なぜなら、家持のこの歌は、古歌(先人の名歌)に学んだものだから。  

すなわち、天平十六・十七年以前の作と推定される萬葉集卷七(雑歌)に収められている作者不明の歌、

黒牛の海くれなゐにほふ/百敷きの大宮人しあさりすらしも(1218)

が、その先蹤。上二句に目にした景色を詠み、なぜそのように見えるのかを下三句で推定する仕組みの歌である。家持がこの歌に着目し、その仕組みを学んだ歌が、上記「桃の花」の作に先立つ二年前に伝えられている。

雄神川くれなゐにほふ/をとめらし葦附(あしつき、水草)採ると瀬に立たすらし(卷十七、4021

がそれである。 古歌に学び、自分の作歌に応用する家持の歌学びの方法を見て取ることができる。

(諸の反省:萬葉集だから二句切れなどと非常に雑なことを教室で言っておりました。当時の生徒の皆さんすみませんでした。)

  〇わが園の李(すもも)の花か/庭に降るはだれのいまだ残りたるかも(萬葉集卷十九、4140

白い花が散っているさまを雪と見ている。梅や桜の落花を雪と見るのはよくあって、「花吹雪」という表現がすでにそう。旅人の梅花の宴の歌「わが園に梅の花散る/ひさかたの天より雪の流れ来るかも」(萬葉集巻五、822)や、『太平記』の「落花の雪に踏み迷ふ交野の春の桜狩り」を思い出しました。

  〇もののふのやそをとめらが汲みまがふ寺井の上のかたかごの花(4143

三日も咲くと消えてしまう堅香子の花の美しさはかなさに、乙女らのそれを重ねているか。

  〇朝床に聞けば遥けし/射水川朝漕ぎしつつ唱ふ船人(4149

朝、漁を終えて射水川を漕ぎのぼりながら唱ふ船人の声を遠くに聞いている、まだベッドの中にいて。 「うたふ」は「歌ふ」が一般的で、「唱ふ」が使われるのはこの歌のみ。初唐の王勃の詩()に「漁舟晩ニ唱ヒ」の表現があることから、この歌は漢詩の世界を背景に詠んでいると推定される。

 

②漢詩を作るにあたって、この字が平声か仄声かはどうやってわかるのかという質問に答えて

詩を作る人は『平仄字典』を持っている―、が、私たちが使う漢和辞典にもその字が平声か仄声かを示す記号がつけてあり、また押韻する時には、その字がどの韻のグループに属しているかもわかるようになっている(改めて開いて見てください)。ただし、万葉時代の人びとがどのように〝平仄〟を学んだのか、1時間や2時間では説明しきれないので、その実態を知りやすいところで、明治の正岡子規の場合を紹介すると―、彼は十二歳で初めて漢詩を作った、その体験談(『筆まかせ』第一編、「哲学の発足」)や、実作の記録『漢詩稿』(冒頭)によって、『幼學便覧』という漢詩作成初心者用の本を用いたことがわかる。『幼學便覧』は、詩のテーマごとによく使われる二字・三字の熟語を集めてその平仄を明らかにし、熟語を組み合わせることで作詩できるようになっているものであって、作詩早わかりともいえようか。

 

時間が押したため、家持秀吟および絶唱の講義が一部次回送りとなった。 

(講師陳謝・文責 諸)

 

 

 

第33回本講座 美しい風土と心ゆるせる友人と 其2  2024年(令和6年)2月17日

相楽台万葉サロン講座概略

2024年217日 美しい風土と心ゆるせる友人と其2  ー越中国守 大伴家持―

 

 天平18年(7487月、家持は国守として越中に赴任した。29歳。地方への初の赴任である。

初の赴任が越中という上国であったことは、家持が名門大伴家の出であるからだ。

 ここで掾(三等官)の大伴池主と交友を結んだ。87日の宴で、おみなえしを持って来た池主と、「こんなにたくさんありがとう」「あなたにあげたいと思って」というやり取りをしているが、出会って一カ月程度でずいぶん親しくなっている様子が感じられる。その後の歌や手紙のやり取りを見ると、もしかしたら、越中国府には家持と対等に文学を語れる人が池主のほかにはいなかったのではなかろうか。池主にとってもそれは同様で、そうやって二人はお互いに心ゆるせる友人となったのだろう。

 赴任後2カ月余り、925日に都から弟書持が亡くなったという知らせが届く。その衝撃は悲しみのあまり何カ月も病に臥すほどであった。その悲痛の思いを聞いてほしい相手の池主はちょうど公務で都に行っていて留守だった。11月に帰ってきた池主を迎えた喜びを詠った家持の歌は「君のことばかりずっと思って待っていた」とまるで相聞歌である。

 さて、互いにやり取りした手紙(漢文)を見ると、池主の漢詩には平仄の誤りがほとんどないのに対して、家持のには誤りが多い。平仄とは漢詩作法において平声と仄声をどう配列するかの規則である。つまり家持は勉強不足。だが、家持が自分は漢文も和歌も勉強不足でへたくそで恥ずかしいと言っているのに対して、池主は「あなたの和歌は山柿にだって負けません。漢文もすばらしい」と答えている。「山柿」は、山部赤人と柿本人麻呂をさすとも、山上憶良と柿本人麻呂だとも、いや柿本人麻呂ひとりだとも言われ、諸説あって定めがたいが、仰ぐべき和歌の元祖を意味することは確かである。

 家持にしてみれば、漢文はイマイチだと自覚しているが和歌については自負するところもあり、池主の「山柿にだって負けない」という言葉は和歌への意欲を後押ししてくれる言葉であったろう。親友の心を見抜いた適切なアドヴァイスと考えたい。 

(諸)

 

 

相楽台万葉サロン新年交流会 2024年(令和6年)1月20日

会場 奈良市北部会館 14:00~16:00   参加費500円

第一部   村田正博先生 講演 「夏子ちゃん(樋口一葉)の和歌修業」 

第二部   「百人一首クイズ」

 

明けましておめでとうございます。

1月20日、北部会館では、2回目になる「新年交流会」を開催しました。まず1月1日に起こった「能登半島大地震」の犠牲者、被災者への 黙祷から始まり、参加者一同心から被災地の方々の 安穏を祈りました。

第一部は村田正博先生のご講演。樋口一葉が13歳、15歳の頃、和歌の師について修業していた、その添削帳の 解説でした。一葉は明治5年東京で、東京府庁勤務の父樋口則義と母滝子の 次女として誕生し戸籍名「奈津」、「なつ子」「夏子」と自署しています。青海小学校を首席で卒業して、和歌を作り始めたのはいつからでしょうか。13歳で毛筆で和歌の冊子を作り和田重雄氏に添削してもらっています。なんと全部で47首。さらに15歳の 時、中島歌子女史の 歌塾に入門し、提示された歌題で沢山歌を作り、添削してもらったものが残っています。

村田先生は、一葉が受けた和歌の添削について、師匠の書き入れの 典拠とされた古歌を検討して、直された意味を解説してくださいました。作者の意図、添削者の意図、古歌を踏まえること等々、和歌修業の奥深さ・複雑さを初めて知る思いでした。一葉15歳の 一首を紹介します。

 

   匂はずはそれとも知らじ梅の花あやなくまがふ月の光りに  なつこ 15歳

 

僅か13歳、15歳の一葉が書き残した水茎の跡の 見事さ、和歌の素晴らしさ、大人顔負けのまさに天才少女だったことを和歌の面からも知ることが出来ました。

 

第二部は「百人一首 クイズ」でした。上の句を挙げて、下の句を答えるというのでなく、一語を挙げて一首を答えるというかなり難しいものでした。時には沈黙になることもありましたが、“三人よれば文殊の知恵”で、当日の参加者48人の知恵で全問クリアしました。

続いて『百人一首』の深掘りで、焦点は、「末の松山」でした。

 

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは 清原元輔(908~990)清少納の父

 

①何故「末の松山」が「心変わりをしますまい」という意味になるのかは、905年成立の 『古今集』の 「君をおきて あだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ」の一首を踏まえていること。②「末の松山」は、仙台港からほど近い小高い丘の上にある寳國寺の裏手をいうとも伝えられ(注 このお寺と裏の 松は、百人一首で「末の松山」が人口に膾炙されるようになって、後からこしらえ出された名所です)ていること。③869年貞観地震の大津波で津波をかぶらないかったことから、この地方では「地震が来たらお寺に逃げろ!」と言い伝えられており、2011年東日本大地震の時は200人くらいのじっちゃん、ばっちゃんが避難してきて助かったとのこと。

 

次は、今回の 「能登半島地震」で諸さんの ご親戚が被害に遭われた事から、被災の 現実を報告してくださいました。そして相楽台は? 近鉄高の原駅を走る線路脇の 川筋の 下あたりに断層が走っているともいわれ、相楽台も決して安全ではありません。できる対策は心掛けましょう、と呼びかけられました。

今回も「木津川市社会福祉協議会」からの助成金があり「天平庵」の 「大和三山」を一個お土産にさせていただきました。朝取りイチゴならぬ朝焼きお菓子、いかがでしたか?

 

昨年の 新年交流会では、村田先生は『百人一首』の誕生について、今年は樋口一葉の和歌修業のお話してくださいました。来年は何の お話をしてくださるのでしょう!楽しみにしてお待ちください。                                 

(中谷)

 

 

第32回本講座 美しい風土と心ゆるせる友人と 其1 ー越中國守 大伴家持ー 2023年(令和5年)12月23日

相楽台万葉サロン本講座概略

2023年12月23日

美しい風土と心ゆるせる友人と 其1―越中国守 大伴家持―

 

 天平18年(746)、29歳の家持は越中国守となって現在の富山県に赴任する。平城京からの経路は、琵琶湖の西岸を通るほかは現在の北陸自動車道とほぼ同じで、私たちが4~5時間で走るところを9~10日かけて歩いている。

  叔母の大伴坂上郎女が旅の安全を祈る歌を贈っているが、家持の返歌は無い。心配で心配でしかたがない郎女と国守となって意気軒昂たる家持の心境の違いは現代にも通じるものがある。

 越中国府は富山県高岡市伏木にあった。浄土真宗西本願寺派の古刹勝興寺付近が推定地である。

そこから二上山が見える。大和の二上山と同じ名を持つこの山に家持は親しみを感じたのではないか。

 大和の二上山は平城京からは見えないが、大伴氏の私有地「跡見田庄(とみのたどころ)」からは、真西に見える。「跡見田庄」は桜井駅付近の外山(とび)あたりと推定されており、家持はここから二上山を見ただろう。

天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ  柿本人麻呂(萬葉集卷三、155

 瀬戸内海を航行する際、とりわけ東向き、大和を目指す船の上から、ああ、あれこそわが家郷だ―、その山並みに、くっきりと二上山の姿が見える―、父旅人が太宰府から帰京する時、家持は13歳で同行していたが、この歌の情景を人麻呂と同じ情感をもって見たにちがいない。

「二上山が見える。あの山の向こうに家郷がある。そして恋しいあの人がいる」。越中国府で二上山を見て詠んだ歌にはこの時の情感が重ねられているようだ。

富山と言えば立山。家持も立山を詠んでいる。今も農家は積雪が多いと秋は豊作だというが、夏にも消えぬ雪、春の雪解け水を詠う歌には、家持の国司として豊作を喜ぶ気持ちがあらわれているようだ。

(諸)

 

 

 

現地講座 歌碑のあふれる宇治を訪ねて 2023年(令和5年)11月5日

現地講座

歌碑のあふれる宇治を訪ねて

 

 11月5日、万葉サロン一行22名は、念願の「宇治歌碑巡リ現地講座」に出かけました。

午前中は、「宇治観光協会」の 2階で小西亘先生の 「歌碑巡り」の講義。万葉集、百人一首、西行、与謝野晶子、山頭火、、、宇治川沿いは歌碑の あふれているのを知りました。 また、ガイドの 西田勇氏の 「宇治川を挟んでの 5回の戦い」の解説も興味深いものでした。

その後宇治川沿いの散歩道を歌碑を確かめながら歩きました。宇治川の流れは早く、清く澄んだ水は白く波立って両岸の景色の明媚さは、ここに来たら歌を詠まないでいられない、そんな気持ちにさせられることがよくわかります。ここで歴史に残る大合戦が5回もあり、沢山の武者の血が流れたとは想像し難い気がしました。

宇治川といえばやはり人麻呂の 歌が浮かんできます。

「もののふの 八十宇治河の 網代木に いざよふ波の 行方知らずも」

宇治橋西詰「夢の浮橋広場」には、明治天皇の

「もののふの 八十宇治川にすむ月の ひかりにみゆる 朝日山かな」

の歌碑があり、この歌は人麻呂の歌を下地にして詠まれているそうです。その隣の紫式部像には多くの 観光客がカメラを向けていました。像を覗いて見ると、紫式部の顔があまり若々しく、私が今迄抱いてきた、あの重厚の『源氏物語』を書いた人のイメージとは違い、一寸ショックでした。

  お昼は、宇治川にせり出ている料理屋「鮎宗」で「鰻飯蒸し」と「茶そば」のご馳走をいただきました。昔は川の 上に建てられた料理屋は沢山あったそうですが、今は市の条例で禁止され、この一軒が残るだけだそうです。従って建て替えも修理も許可されず、入口も板の踏み台を登って中に入ります。お店の床下には川の せせらぎが、川岸には鵜飼舟、向こうには丹色の朝霧橋、その奥に朝日山、仏徳山の山並みと、まさにお月見に絶好の場所だそうです。

お腹がいっぱいになったところで「源氏物語ミュージアム」を訪れました。今から1100年前の 平安時代に、この優雅で手の込んだ華やかな装束、黒漆塗りの牛車、見事な調度品の数々が作られたとは! 機械文明に頼らず人間の持つあらゆる能力が遺憾無く発揮された、豊かな文化技術を感じました。

  次に黄檗山宝蔵院に行きました。1600年代、鉄眼道光(てつげんどうこう)禅師が、一切経(あらゆる仏教宗派で使われる仏教経典の全て)の木版工房を作り、その全ての版木6万枚がここに収蔵されています。版木の 素材は桜の柾目で、良質の吉野桜が使われたそうです。この時印刷の ため工夫されてできた書体が明朝体で、現在広く使われている明朝体の もとになりました。この 宝蔵院は今は「重要文化財」となり、普段は公開されていません。

最後は隣りの萬福寺を拝観しました。萬福寺は江戸時代、徳川4代将軍家綱の支援を得て、中国から渡来された隠元禅師によって建てられた禅宗の寺で、黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山です。

中に入ると、すべてが中国の禅宗寺院そのもので、中国に来たような感じがします。仏像も中国風で、入口に金色の布袋様が大きなお腹を抱え、大笑顔で迎えてくださいます。

この時、隠元禅師と共に中国の 先進文化、建築、文学、音楽、印刷、、、等や、インゲン豆、スイカ、レンコン、ナス、、、など新しい食材も多く我が国にもたらされ、江戸の 町人文化の 元となり現代に流布されていると言われています。

名物「普茶料理」は隠元禅師が伝えた中国風精進料理で、風味豊かで見た目も美しく、三百数年後の 今でも人気があります。

 

今回は、宇治のあらゆる文化、歴史、文学、仏教などに精通されているガイド西田勇氏が、一日私共に付き合って懇切丁寧な説明をしてくださいました。どんな質問でもたちどころに答えてくださり、宇治の奥深さに触れることができました。 

晩秋とは思えないポカポカ陽気の 一日、小西先生、西田様、皆様有難うございました。

(中谷記)

 

 

第31回本講座 山河の清けき見れば 2023年(令和5年)10月21日

相楽台万葉サロン本講座概略

2023年10月21日

山河の清けき見れば   ―久迩の宮と大伴家持

 

 天平15年8月16日、家持は久迩京讃歌を詠んでいる。

今造る久迩のみやこは山河の清(さや)けき見ればうべ知らすらし

 

 天平12年12月から久迩京が造作中なので、「今造る」というのだが、聖武天皇は天平15年7月から紫香楽(しがらき)に行幸中で、そこに大仏を作り紫香楽宮を造るつもりであった。

実際、12月に久迩京に帰った天皇は久迩京の造作を停め、紫香楽宮を造り始めている。

「うべ知らすらし」…ここを統治の地となさるらしい、いかにももっともなことだ…なぜならここは 「山河の清(さや)けき」吉野の宮、偉大なる祖父天武の吉野の宮のイメージを重ねることのできるところだから。 

家持は久迩京を讃美するだけでなく、聖武にこの土地がどういう土地か思い出させてこれ以上の彷徨を止めさせようとしているかのようである。

 

 天平12年10月に始まる聖武の彷徨は、平城京を出て一旦伊勢神宮へ向かうかに見えたが、その後方向を変えて壬申の乱時の大海人皇子の行程をたどり、久迩に至って久迩を都と定めている。

「朕意フトコロ有ルニ縁リテ」「事已ムコト能ハズ」というほどに聖武の心の重い負担となったのは、天平9年に発生した天然痘の大流行で、上も下も数えきれないほど死者が出、政治の中枢にあった藤原氏などは不比等の長男から4男まですべて亡くなっている。その空白を埋めるべく、帰国した留学僧玄昉と同じく帰国した留学生下道(吉備)真備が登用されるが、それに不満を持った藤原廣嗣(疫病死した不比等の3男宇合の長男)が反乱を起こした。

 

 天災も疫病も世の乱れはすべて、トップの「不徳の致すところ」であった当時、このような状況がいかに聖武の心を悩ませたか。天武の足跡をたどり、神仏にすがり、都を遷し、天下の安寧を願った聖武には痛ましいものを感じる。

(諸)

 

 

第30回本講座 戀のゆくへ 2023年(令和5年)8月19日

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2023年8月19日

大伴家持とその妻坂上大嬢

 

 坂上大嬢は、家持の父旅人の妹・坂上郎女の長女で、家持の従姉妹にあたる。

 二人の相聞歌は萬葉集の様々な巻に散らばっているが、時の流れに沿って並べなおすと、天平3~4年(731~732)に始まり、数年途絶えたのちに復活している。

 天平3~4年、家持は16歳ぐらいで、大嬢を撫子の花や玉になぞらえて詠んでいるが、積極的に交際を求めているような気配は感じられない。「いつしかも花に咲きなむ」と詠んでいるところをみると、大嬢はまだ幼かったのだろうか。大嬢の歌も将来について悲観的な感じである。二人の仲は順調に深まっていったのではないようだ。

 同じ頃、家持は笠郎女、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子から歌を送られているが、家持からの返歌は無かったりそっけないものだったりである。

 「離絶数年の後」、家持と大嬢は再会し相聞も復活している。復活後の相聞歌は双方とも感情が高揚し内容にも相聞らしい呼応が見られて、婚姻の成立に至ったものと思われる。

 「数年後」とはいつか。天平11~12年ごろである公算が大きい(家持2223歳)。初めの相聞(天平3~4)年から算えると、8年ばかり。それを「数年」と言うところに、空白をなるべく小さく表現したいという、家持の可愛い下心を読み取ることができよう。

 そうして、天平11年は家持の「亡妻挽歌」の年である。

 (諸)

 

 

現代詩講座 +α講座「現代にもこんな素敵な詩が」2023年(令和5.6.17)

相楽台万葉サロン講座概略

6月17日  +α講座「現代にもこんな素敵な詩が」

 

今回も心に響く詩をいくつも紹介していただきました。(星野富弘の穏やかな絵もテキストに入っています。)

中でも、「紫陽花の駅」をダークダックスの歌声で聞いた時は、会場がひと時シンとするほどで、駅に交差する「いろんな人生」と「あの人 今年も帰らない 紫陽花がまた咲いたのに」の歌詞に、出席者はそれぞれの思いを重ねておられたのではないでしょうか。

私もなぜか、2年前に肺ガンで亡くなったY君のことが心に浮かんでいました。小学校の同窓生です。人生が交差するほどのこともなかった、駅も紫陽花も思い出の中にはありません。 なのになぜ彼のことを思い出していたのでしょう。

「お父さん」(すえかわしげる)の 「あの時 なぜ黙したまま答えなかったのか」「あの時言いかけて途切れた言葉」という詩句もまた、それぞれの胸に響いたのではないでしょうか。

 

長田弘の「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」

すえかわしげるの「誰にでも読める言葉で、誰にでもわかる、しかし誰にでも書けない。読む人々の心に含蓄をあたえる、作品」

田宮虎彦の小説「花」の「口で食べるものだけが食べものじゃねえだ、心で食べるものがなくなった時、心は生きていけねえだ、心の生きていけねえ人間などもう人間ではねえだ」

そして、村野四郎の「詩とは、りんごを食べるようなもの」

これらはみな、詩に向かい合う時に心に留めおくべき言葉だと思うと同時に、なにやら不穏な情勢の今、忘れてはならない言葉だと思いました。

(諸)

 

 

第29回本講座 家持 門出の作   2023年(令和5年)4月1日

相楽台万葉サロン本講座概略  

2023年4月1日 

家持 門出の作 

 

 天平11年(西暦739年)晩夏に(家持22歳)妻を亡くした悲しみをうたう挽歌の連作がある。(萬葉集巻三、挽歌、462474 

 秋風につけ秋の花につけ湧き上がる激しい悲しみが、次第に無常の思いと重なって、「泣かぬ日は無し」と言いつつも静かに永続する追慕へと変化していく過程が詠まれている。 

 自分の心情を詠うにあたって人麻呂・憶良・旅人の亡妻挽歌の表現を踏まえていて、伝統的な表現方法を会得した様子が見られ、長歌にも挑戦していて、専門歌人として立っていこうという意気込みが見られる。 

 家持は天平10年(21歳)に内舎人であった。すなわち宮廷に出仕したばかりで、(今でいう″フレッシュマン″)宮廷人として活躍していこうという自覚とともに、歌人としても立つ自覚が生まれていた。 

そういう意味で、この亡妻挽歌の連作はまさに、家持の「門出の作」である。  

*家持の年齢は養老2年(718年)生まれとして計算している。       

(諸) 

 

 

柳生・笠置山の歴史文学現地講座 2023年(令和5年)3月26日

柳生・笠置山の歴史文学現地講座

 

 去る3月26日(日)、京都府立南陽高校教諭 小西亘先生の案内で、参加者26名が笠置山とその周辺の歴史、文学故地を周りました。笠置山も柳生の里も、私達木津市民にはお隣の地で、普段よく

傍を通り過ぎてはいるのですが、真の姿を知っている人は少なかったようです。

 初めに訪れたのは柳生の里です。アニメ「鬼滅の刃」が海外に配信された影響か、「柳生の里」は、最近「剣豪の聖地」として、外国から訪れる人も多いそうです。中でも「一刀石」は巨大な石が、本当に一刀両断に刀を振り下ろしたがごとく真ん中が切れているのはビックリでした。その脇に、石に間違えてられてしまった天狗の像が、小さく祀ってあるのがなんともユーモラスでした。「墓地」とは言えど、800百余基ある「柳生一族の墓」は底知れぬ存在感が漂っています。 苔蒸したまあるい傘の墓基が立ち並び、中には墓石の形が酒樽、徳利、盃をしたのもあり、柳生一族には剣豪だけでなく酒豪もいたのだと、認識を新たにしました。

 昼食は「十兵衛食堂」で「十兵衛定食」をいただきました。この精進料理を食べて十兵衛さん木刀を振り回していたのでしょうか?

午後からは旧柳生中学校で、小西先生の「笠置山•柳生の歴史文学」講義をいただきました。 実際に見聞してきたところなので、とっも納得感のある授業でした。

 次に、バスで移動して「笠置山」に行きました。「笠置寺」の小林慶昭御住職さんが、弥生時代からの 「笠置山」の信仰と歴史を熱く語ってくださいました。「笠置山」は飛鳥の御代から「弥勒信仰」の聖地のして尊ばれ、歴代の帝が数多く行幸されたところです。平安時代の『枕草子』には「寺は壷坂、笠置・法輪・・」と記され、明治時代の随筆家 大町桂月の『笠置山』には笠置山に上るもの、日に多きは千人を越ゆることあり。少なきも百人を下ることなし」とあり、いかにこの山が人々にとって心の 拠り所であったかが窺われます。鎌倉時代には笠置山には49もの寺院があったといわれてますが、幾多の戦乱で焼失し、今は笠置寺一寺となっています。また自然背景では、文殊石、弥勒石、虚空蔵石、太鼓石、、など花崗岩の巨岩が至るところにあり、修験道の行場であったというのも頷けます。 昔は栄えたこの山も、今はひっそりと世俗の塵にも穢されず、幾多の歴史が巨岩と大木の緑に染み込んでしまっているようでした。

今日は一日中アメ!滑ったり、転んだり、杖をついたり、柳生・笠置の旅は楽しい甘露の雨の 中でした。

(中谷レイ記)

 

 

第28回本講座 萬葉の貴公子 大伴家持登場  2023年(令和5年)2月18日

相楽台万葉サロン本講座概略

2023年2月18日 

萬葉の貴公子 大伴家持登場

 

萬葉集最後の歌人(第Ⅳ期)、大伴家持をめぐる講座の第1回。

家持が萬葉集に登場する最も初期の作(巻六、994、巻八、441、1446)の講義。

994の歌は、天平五年(西暦733年)の作、1441・1446の歌は、天平四年(西暦732)の作であり、前者は家持十六歳、後者は十五歳の時のものと推測される(『公卿補任』宝亀12年「參議」の条、 および『大伴系図』の記載により養老2年[西暦718年]生まれとして算定)。 ただし、これらの作は、叔母である大伴坂上郎女らの手引きに負うところが大きく、いわば〝習作〟であったらしい。ひとかどの「歌人」(うたよみ)として家持が認められるようになるのには、さらに数年が 必要であった―、このことは、次回(4月1日)「家持門出の作」の講義に期待が昂まります。  

(相楽台万葉集HP事務局)

 

 

相楽台 万葉サロン新年・交流懇親会の報告 2023年(令和5年)1月21日

2023,1,21(土)14:00~奈良市北部会館

 「相楽台 万葉サロン新年・交流懇親会」の報告

【第一部】

『小倉百人一首和歌』 村田正博先生講義

「なまじひに筆を染めて」

 藤原定家『明月記』文暦ニ年(1235年)五月ニ十七日の記事より

 

藤原定家(当時74歳)の日記『明月記』に、「百人一首」を選定した経緯が記しとどめられています。宇都宮頼綱に「嵯峨中院の別荘(定家の別荘・小倉山荘も嵯峨中院にあった)の障子(ついたて)に貼る色紙に和歌を書いてくれ」とたのまれ、定家は「書は苦手」と辞退したけれど、懇切に頼まれて「なまじひに筆を染めてこれを送る」とあります。

天智天皇をはじめとする和歌百首の選定が、その後の「百人一首」に繋がっていくのですね。

 

また「上の句」を詠んで「下の句」を答えさせる遊びが、清少納言の 『枕草子』に見られるそうです。第ニ十段に、中宮定子が『古今和歌集』を御前に置いて、女房たちに「上の句」を詠みあげ「これが末いかに?」と尋ねたところ、『古今和歌集』は千首余りもあるので「下の句」を十首まで言えたのが最高だったと言います。これからしても「百」という数の意味深さ、多すぎず、少なすぎず、絶妙な数字だとわかります。

 

カード遊びの起源は、江戸時代初めの風俗画屏風、遊女達がトランプ遊びをしている「南蛮カルタ」のようなものが元になったのではなかろうかと。今のような形の「百人一首かるた」は、1576年〜1620年頃に製作されたのが現存する最古のものだそうです。また萬葉学者 澤瀉久孝先生の作られた「萬葉かるた(百首)」も数枚載せてくださいました。どんな歌が選ばれたのか興味ありますね。

 

「交流会」では、村田先生には御負担をお掛けしないでと思っていたのですが、今回も『明月記』写本、「小倉山」の 古地図、定家筆の 「色紙」、源氏物語和歌色紙貼交屏風、澤瀉久孝先生の「萬葉かるた」他ふんだんにカラー写真を載せて素晴らしい資料を作ってくださいました。ありがとうございました。

 

【第ニ部】

「百人一首」クイズ

「百人一首」の「上の句」を大きく映し、いくつもの 「下の句」の中から選んでもらおうというクイズでしたが、「上の句」が映し出されると「下の句」の例文が出ない内に一斉に「下の句」が詠みあげられる、という鮮やかな解答ぶりに出題者もビックリ!打てば響くというやりとりに会場は大盛り上がりでした。参議篁が夜は閻魔大王に仕えていたとか、壬生忠見が歌合せに負け傷心して命を落としたとか、さまざまなエピソードも興味深かったですね!続いて「面白クイズ」。「大和三山」「出羽三山」「日本三景」「熊野三山」分かりますか?最後に「プレゼント」タイム。「中川商店カヤフキン」「鳩居堂一筆箋」「大和文華館のチケットケース」などがありました。(参加者43名)ありがとうございました。

(中谷レイ記

 

 

第27回本講座 山上憶良「貧窮問答歌」ー弱者への眼差しー (令和4年12月24日)

相楽台万葉サロン本講座概略

1224日 第27回本講座 山上憶良「貧窮問答歌」―弱者への眼差し―

 

○テーマ 山上憶良「貧窮問答歌」―弱者への眼差し―

 

①仏教に見る貧困対策

 『賢愚経』という天平時代によく知られていたお経には次のような説話がある。 「ある大商人が借金に苦しんで自殺しようとしていた人を助けたが、その借金を肩代わりしたために破産し、妻子は路頭に迷うことになった。仲間の商人達500人が金を出し合って商船を用意してくれたので、大商人は大海に漕ぎ出したのだが難破してしまった。すると如来の慈悲によって船は彼岸に吹き寄せられ大海を渡ることが出来た。(=死んで苦しい生を逃れ、浄土に生まれ変わることが出来た。)」 この説話に見られる対策は、相互扶助と如来の慈悲による死後の救済である。

 

②政治における貧困対策

 『続日本紀』には 和銅7年(714)の元明天皇の詔がある。 それは、「貧窮に苦しむ人には庸・調の免除、糸・綿・布の支給をせよ。支給したものをネコババする国群司・里長は解任する」というものである。 現在で言えば、免税・減税・各種補助金の支給であろう。

 

③山上憶良「貧窮問答歌」 …天平5年(733)3月1日「貧窮問答歌」は「貧者」が問い「窮者」が答えるという形式になっている。

*貧者の問い

 風、雨、雪でどうしようもなく寒い今夜は、私はありったけ着込んで酒を飲んで暖まろうとしている。といっても金がないからいい酒は飲めないよ。糟湯酒だ。貧しくてもプライドは捨てていない。が、プライドでは暖まらない、やっぱり寒い。こんな寒い夜、うちより生活が厳しい君の家ではどうやって過ごしていますか。

*窮者の答え

 この天地には私が住める所はないようだ。月も日も私のためには照ってはくださらない。 私だって人間として生まれて懸命に働いてきた。なのに、着物はズダズタでボロボロで、家は今にもつぶれそうで、床もなく土にワラを敷いて座っているありさまだ。もう何日も食べていない。父母も妻子も飢えと寒さに細々とうめいている。そんなところに里長はむちを持って大声でわめいて徴税に来る。君よ、こんなにもどうしようもないものなのか、生きるということは。

*反歌

 これはどの人の立場から詠まれているか、貧者の立場 窮者の立場 憶良の立場の三通りが考えられる。「それでも生きるしかないのだ」という、貧者の窮者への慰めではないか?

 

④「貧窮(貧・貧賤)」をどうとらえるか

*無住一圓の場合…『沙石集』より鎌倉幕府三代執権北條泰時の逸話を紹介して、「貧しくともへつらわない、富んでもおごらないのが心安らかだ」としている。

*安藤野雁の場合

野雁は幕末の萬葉集研究者。著作『萬葉集新考』。家庭的に恵まれず、定職も得られず貧窮生活の中にあった。

『野雁集』に、「みるのごとわゝけさがれる」衣を恥とせず、生きている限り万葉の研究に打ち込む心情を詠んだ歌がある。

野雁なら貧窮問答歌にどんな注釈をつけただろうか。残念なことに『萬葉集新考』は貧窮問答歌のある巻五が現在に伝わっていない。

 

○制作意図

左注に「山上憶良頓首謹上」とあるから、誰か目上の人に献上したもの。民衆の窮状を訴えて対策を期待したのではないか。

 (諸)

 

 

現代詩講座 『とっておきの詩をどうぞ』 (令和4年10月15日)

10月15日現代詩講座の内容

○講題  とっておきの詩をどうぞ  ―詩とは りんごを食べるようなもの―

○長田弘による詩の定義  『折々のことば』(朝日新聞コラム・鷲田清一)

  「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。」

 この観点で村田先生に以下の詩を紹介、解説していただきました。

 

長田弘  「砂時計の砂の音」 

ハリール ジブラーン  「おお地球よ」

A.   Voznesensky 加藤登紀子訳  「百万本のバラ」

由良恵介  「布団」

瀬野とし  「縫う」  関連して 吉野秀雄の短歌五首(『寒蟬集』より)  

新川和江  「千度呼べば」

月岡一治  「願い事」「春になったら」「入学児検診」「やさしさ」「もしもし……」

(それぞれの詩の内容を要約していたのですが、途中でむなしくなってやめました。やはり詩は内容もですが、ことばこそです。その詩人の使ったことばに触れないではダメです。テキストのない方は中谷さんまでご連絡ください。)

 

○まとめ

詩を読むときは、「私がそう思っているんだ」と想像力を働かせて読むこと  という村田先生からのアドバイスと、近代詩人で村田先生の師でもある村野四郎氏のことば 「詩とは りんごを食べるようなもの」とはどういうことか、それはおいしそうだなと思って食べていると、いつかしら生きてる糧になるという意味だ というお話をしていただきました。

 

それぞれの詩の心に胸がいっぱいになって、講義なさっている先生も聞いている私たちもウルウルしてしまった現代詩講座でした。

(諸) 

 

 

『笠置山•南山城•月ヶ瀬 文学散歩』 (令和4年9月17日)

日時 2022,9,17(土) 13:30~ 相楽台5丁目集会所 

講師 京都府立南陽高等学校国語科教諭 小西亘先生

 

今日は主に、国道163号線木津川沿いにその姿を見せる、標高288メートルの小高い山「山」についての講演でした。

近代の観光地からは遥か忘さられ車で通ると何気なく行き過ぎてしまう山「笠置山」、その笠置山はただの山ではなかったのです。

そもそも「笠置」という地名の 由来は、飛鳥時代、天智天皇の皇子が馬に乗って崖っ淵に追い詰められ絶体絶命という時、「命を救ってくれたら巌に弥勒菩薩を刻む」と願をかけ、目印に「笠を置いた」ところから「笠置山」と名づけられたのだそうです。 

また平安時代、清少納言の『枕草子』に「寺は壷坂。笠置。法輪。霊山は釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。古川。志賀。」とあり、第二番目に「笠置」を上げていることから、当時いかに有名な寺院だったかがわかります。

さらに人々の 記憶に印象深く刻み込まれたのが、鎌倉時代1331年「元弘の変」の出来事でした。戦いに敗れ、僅かな従者とともに徒歩で笠置に逃れた後醍醐天皇が、野宿の最中追手に 捉えられ、隠岐の島に流罪になるという、その場面は大正9年の『尋常小學史』にも載せられ、忠臣楠木正成と帝の恩愛の故事は広く人口に膾炙していたのでしょう。

治44年紀行文作家、大町桂月の『笠置山』によると、関東の、忠臣蔵の四十七士が祀られ多くの 人が詣出るという「泉岳寺」と比較して「、、、これを関西に求むるに、笠置山に上るもの、日に多きは千人をこゆることあり。少なきも百人を下ることなし。笠置山に上るものは、主として後醍醐天皇行在の跡を弔いまつる也。」とあります。

笠置山・南山城・月ヶ瀬は、古代から明治に至るまで、天皇の行幸をはじめ、藤原道長、藤原俊成、定家、芭蕉など多くの 政界、墨客文人から一般民衆に至るまで、あらゆる人の詣でなければならない日本人の聖地であることを教えていただきました。

今でも交通の 便が悪く、車も行きにくいという桃源郷「笠置山」、小西亘先生が纏めてくださったテキスト資料をしっかりと読み直し、足を鍛えて古代人の想いを辿りに行ってみませんか。 

(文責 中谷)

 

『相楽山・南山城の文学散歩』第1回(令和4年3月27日)と第2回(7月16日)

 『相楽山南山城の文学散歩』の概略

日時 :第2回 2022,7,16  (土)13:30~15:00

講師 : 京都府立南陽高等学校国語科教諭 小西 亘先生

会場 : 相楽台5丁目集会所

 

[内容]木津川周辺(狛山・鹿背山・祝園)、平城山の文学散歩

 第2回目の 講義は『古事記』『日本書紀』から現代に至るまでの 、この地を題材にしている文学作品を数多く取り上げ、その背景などいろいろ解説を加えてくださいました。

 “木津川”は昔は“いずみ川”と呼ばれ万葉集、古今集、新古今集などに詠まれ、美しいが一面厳しい川というイメージがあったこと。また鹿背山、狛山、祝園は古くから歌枕の 地として有名であったことも知りました。 また「人恋うはかなしきものと平城山に、、、」と歌った北見志保子の 波瀾に富んだ人生を聞き、この歌は情念がこもった歌だと知りました。他にも普段何気なく通り過ごしている、「相楽懸木社」「平重衡首洗い池」「歌姫街道」「瓜生田の遺跡」、、、などこの相楽台近辺一帯は古今東西多くの 文学作品を生み出し、先人達の 想いが詰まった地であることに深く感銘を受けました。

(中谷)

 

 『相楽山南山城の文学散歩』の概略

日時 :1回 2022,3,27日(土)13:30~15:00

講師 : 京都府立南陽高等学校国語科教諭 小西 亘先生

会場 : 相楽台5丁目集会所

 

[内容]「万葉集に詠われている相楽山とはどこか?」

 第1回目の講義は『万葉集』巻三481番歌に詠われている高橋朝臣の長歌「我が愛する妻が亡くなり、その亡骸を“山背の 相楽山”に葬ったとあるが、その“相楽山”とは現在の どこに当たるか」ということについて論証してくださいました。

 小西先生は、今までの万葉学者、地名研究者の説(6説)を呈示して論考を加え、自らの 研究成果を発表されました。

 それはまさに私どもが住まいしている“相楽台の山々“と結論付けてくださったのです。

 

そう言えば、相楽台の木津川市合併前の 住所は、“小字相楽山”だったことをおもいだされる方もいらっしゃると思います。いずれにせよ、1300年前、 相楽先住民が悲喜交々、それぞれの 人生を送っていたのですね。(中谷)

 

第26回本講座  憶良・旅人の遺産 (令和4年6月18日)

○テーマ 憶良・旅人の遺産

憶良の「子らを思ふ歌」(萬葉集巻五、802803)、旅人の「酒を讃むる歌」(萬葉集巻三、338350)は後世にどう受け継がれたか。

 

○憶良の「子らを思ふ歌」の序には、釈迦如来の言葉として「等しく衆生を思ふこと、羅羅のごとし」と「愛は子に過ぐるは無し」が引用されている。

「等しく衆生を思ふこと、羅羅のごとし」は『大般涅槃経』に見える釈迦の言葉だが、「愛は子に過ぐるは無し」は『雑阿含経』に舎衛国の天子の言葉として出てくるので、釈迦の言葉ではない。

『佛所行讃』には、釈迦が出家するために城を抜け出すときの心境を記述した箇所に、「愛の深きは子に踰ゆる莫し」とあるが、これは悟りを開かれる以前のことで、釈迦如来の言葉とはいいにくい。

仏典にある言葉だから釈迦如来の言葉と考えたのか、あるいは、憶良の見た仏典では釈迦如来の言葉として記述されていたのか、今後の課題である。

 

○憶良の後、子を思うことをテーマにした文学が現われるのは、約300年後(1000年代)の『後撰和歌集』藤原兼輔の和歌・『源氏物語・桐壷の巻』の桐壺の更衣の母の述懐である。「心のやみ」という言葉で、子を思って思い乱れる親の心が語られる。

○続いて、1800年代(江戸後期)の良寛の歌・一茶の『おらが春』・橘曙覧(たちばなのあけみ)、その後、明治・大正・昭和の松倉米吉・五島美代子がある。

 

○旅人の「酒を讃むる歌」についても、讃酒をテーマにした文学は1800年代(江戸後期)の橘曙覧、その後、特筆するべき作品は、明治末期の吉井勇『酒ほがひ』。

 

なぜ何百年も途切れたのか、どうして復活したのか。

 ・・・それには、わけがあるのです。機会を改めてお話いたしましょう。 

(諸)